Sight from Language Games
日常的な事柄を政治経済、社会学的に分析してみるブログです。 もちろんこれらに正解はありません。 一つの物の見方ということで、 「こういう風にも考えられるんだ」 っていうのをお伝えできれば、と。
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いじめについて
いじめ、というの最近問題になっていますね。
もちろん、いじめ、という問題自体は、人間社会全体においては、決してなくなることのない問題でしょう。
今日では、それに付随した自殺、という問題も起こっています。

この問題については、大学院のときの別の研究室の方が詳しいのですが、自分なりに分析的な視点を置いてみたいと思います。

まず、いじめをしてはいけない、自殺はいけない、という倫理的な規範は、社会の行動規範として意味がないとは言えませんが、それを前提にはできません子供であっても人は自己の利益のために行動するもの。
政治経済学的に、利益的行動規範を前提に分析しないのは、問題を曖昧にするだけで、意味がありません。倫理規範を共有することは、今日では難しい問題ですから、問題対処として効果的でありません。
利益的行動で説明しきれない部分に、倫理規範の存在の可能性をみる方が、現代的アプローチといえるでしょう。

要するにですね、いじめをするメリットとデメリット、自殺することのメリットとデメリットを考えるわけです。
被害にあった子供が苦しい、とか結果死んでしまったとかは、少し残酷な言い方かもしれませんが、いじめをした方にとっては、どうでも良い問題なのです。それよりも、いじめをすることによって、子供の社会での地位の安定、精神的充足には明らかなメリットがあります。
いじめをしたことによるデメリットがそれを上回らない限り、いじめは根本的に減少しないでしょう。
とはいえ、いじめや少年犯罪に対する厳罰化には賛成できませんし、今日のように大きく報道されて大問題になってしまうのも、良くありません。
なぜなら、もっと小さいデメリットでコントロールできるはずの問題だからです。大きすぎる罰を与えることは、被害者だけでなく加害者の人生も失わせ、結局、再犯率が増加して、将来的に沢山の被害者を生むだけです。結局、大問題になる、ということ自体、むしろ大人の社会の無能と無神経を示しているだけ、と言えるでしょう。

児童心理学、社会心理学などは自分の専門から遠いので、具体的にどういう方策が、子供達のメリットをコントロールするかは、ここでは扱いません。
ですが、いじめや自殺は、何かの欲求を充たす唯一無二の方法ではないでしょう。いじめや自殺そのものが目的ではなく、方法である限りは。
そうであるなら、代替手段を見つけ、そちらに誘導するべきなのです。
単に、いじめはだめ、自殺はだめ、では、「じゃあ、どうすればいいの?」「でも、それが一番、簡単で合理的だ」という問いから逃れられません。
その真なる答えは、存在しません。
子供と大人が話し合って、作り上げていくものなのです。その作っていくという姿勢自体が、最も大事な問題解決の方法なのです。
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「奇妙な経済学を語る人びと」
なにやら、凝った話をしてると、続かないですね。
久しぶりに経済学に触れようと思い、リハビリがわりにこんな本を読んでみました。

「奇妙な経済学を語る人びと」 原田泰(日本経済新聞社、2003)

ほんと、経済官僚が書く本、って感じです。
偉そうで、中途半端に理論的で・・・って感じで。
少し経済を知っている人にとっては、内容は悪くないと思いますが、専門的には役に立ちません

基本的には、市井のエコノミストが言っている、「滑稽な論理」をわかりやすく論破しようとする、そんな本です。
その骨格は、
・ 基本(経済学理論)と事実(統計・数値)を基本にしろ
・ 法廷弁護士のような真似をするな(言いたいことありきで、こじつけな論理と証拠をあてがう)
ってことらしいです。

まず、この人は、エコノミスト、って人を誤解してます。
エコノミストって、経済学者じゃないんですよ。
企業のエコノミストにはいくつか種類があって、企業の投資判断に資する内部に向けた人と、お客さんに投資商品を売るための言い訳をする人、面白いことを言って受けようとする人、ジャーナリスティックな人、といったところです。
どれも少しずつ違いますが、大まかに例えると、法律学者と法廷弁護士なら、クライアントの利益を守る法廷弁護士なわけです。

裁判官や陪審員のかわりに、市場やクライアントの顧客を「説得」させてクライアントや自分の利益を得る人々がエコノミストなわけです。
馬鹿正直に「リスクが大きく、投資先の経済に悪影響があります。」なんてエコノミストが言う投資商品を誰が買うって言うんでしょうかね

著者の主張は、つまり、エコノミストという職業自体失くせ、っていうこととほぼ同じです。
エコノミスト自体の需要はありますし、どちらかというと、あまり彼らに騙されないように、って政府の経済政策を正当化する方が、経済官僚が書く本としては妥当だと思うんですけど。

具体的な中身が、どう専門性に耐えないかって話は、また機会があれば。
例題:サッカーの反則(2)
前回の続きに入る前に、立場が違うことによって、どういった現象が起こるのかを具体的にしましょう。
この場合では、解説者がよく言う、「本来ならオフサイドでない」という表現です。
この表現ができる、ということは、解説者にとっては、「本来」的な、つまり客観的にオフサイドという事実があるにもかかわらず、審判がそれを誤認識、つまりミスジャッジをしてオフサイドにしてしまった、ということなのです。

でも、当の試合にとっては、本来的なオフサイドとは何でしょう?
試合の進行中に、審判がオフサイドと判断したものがオフサイドなのです。
なぜなら、試合は、審判の権威に服していて、審判以外の判定を受け付けないし、審判以外の判定によって試合が左右されることはない(のが普通)だからです。
結局、解説者が何をいったところで、当の試合には何ら影響を及ぼさないので、リスタートはされるし、ボールの支配権も移るし、それによってチャンスも潰れるわけです。
試合にとっての本来的なオフサイドとは、審判が下したオフサイドの判定に他なりません。

でも、やっぱりテレビで見ている人なんかは、「今のはオフサイドじゃない」、って思うわけです。
解説者がオフサイドかどうかを判定する意味は、実はそこにあります。試合を運営するためのオフサイドの判定ではなく、テレビで見ている人に対する判定なのです。
つまり、そこではサッカーの試合の他に、サッカーの試合を報道する、解説者と視聴者の間の、また別のゲームが存在しているわけです。

じゃあ、解説者が「本来のオフサイド」と発言することの意味は、サッカーの試合には全く関係のない、意味のないことなのでしょうか?
そんなことはありません。サッカーの試合やルールを変えかねない大きな影響を生み出します。
大きな視点からすると、解説者の発言もまたサッカーというゲームに含まれます。それが、例えばVTR判定導入の議論なのです。

ようやく、次の議論に進めそうでしたが、それは次回の話になってしまいました。
さわりだけ、説明しましょう。
ポイントは、前回にあった、審判の判定に従うという、審判の権威です。
ビデオという録画技術は、それへの信頼が高まることで、かえって審判への不信を増長させます。
そこで、審判の権威が失われつつあり、そして、オフサイドとは、試合中に審判がその場で判定するものではなく、ビデオ再生などによって示される「解説者のオフサイド」に取って代わられようとしているのです。
これは、ハート法理学では、一次ルールと二次ルールの結合の変化、及び二次ルール自体の変化と捉えられることでしょう。
例題:サッカーの反則
よくサッカーの中継を見てると、解説者とかが
「今のは、ファールですよねえ」とか、
「オフサイドじゃないでしょう」とか言いますよね。

例えば、AとBというチームが対戦していて、Bの最終ラインの内側にAの選手が、二人、それぞれパサーとレシーバーがいたとします。
そこで、パサーがパスを出した後に、レシーバーが最終ラインを抜け出て、パスを受け取ったときに、審判がオフサイドをとったとします。
そこで、解説者が言うわけです、「今のは、オフサイドじゃない」と。

これって、良く考えると不思議です。
この解説者は、何が反則なのか、ここではオフサイド(良く分からない方は、そういう反則があるってことで十分です)にしますが、ある行為がそれにあたる、あるいはあたらないとしているわけです。
こういうことを解説者が言えるためには、彼にとって客観的にオフサイドっていう反則がある、ということになります。
これは普通に聞こえます。
だって、後でビデオを巻き戻した映像があって、パスが出た瞬間に、相手の最終ラインと受け手の位置を比べれば、はっきりわかるわけですから。

でも、いくら解説者がわめいたところで、オフサイドじゃなくなったりしませんよね。
その行為は、やっぱりオフサイドなのです。審判がオフサイドといったら、オフサイドなのです。
つまり、オフサイドという反則が成立するには、審判がオフサイドかどうかを判定する、ということと、それとは別にプレイヤー達が審判に従う、という別のルールが含まれるわけです。
解説者が何を言ったところで、判定には影響を与えませんし、彼がオフサイドを認めないということは、審判に従わないということです。
解説者である彼には審判に従う義務はないわけですから、別にかまいません。彼は退場になったりしないのです。

さて、ここでの小結は、オフサイドという一つのルールが、現実に反則として試合に影響を与えるには、審判自身の判断と、その審判に従う、つまり権威という別のルールが必要、という当たり前のことになりました。これはハートの法理学です。
続きは、この見方(ハート法理学)とビデオ判定の導入議論の関係を分析してみます。
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