Sight from Language Games
日常的な事柄を政治経済、社会学的に分析してみるブログです。 もちろんこれらに正解はありません。 一つの物の見方ということで、 「こういう風にも考えられるんだ」 っていうのをお伝えできれば、と。
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例題:サッカーの反則(2)
前回の続きに入る前に、立場が違うことによって、どういった現象が起こるのかを具体的にしましょう。
この場合では、解説者がよく言う、「本来ならオフサイドでない」という表現です。
この表現ができる、ということは、解説者にとっては、「本来」的な、つまり客観的にオフサイドという事実があるにもかかわらず、審判がそれを誤認識、つまりミスジャッジをしてオフサイドにしてしまった、ということなのです。

でも、当の試合にとっては、本来的なオフサイドとは何でしょう?
試合の進行中に、審判がオフサイドと判断したものがオフサイドなのです。
なぜなら、試合は、審判の権威に服していて、審判以外の判定を受け付けないし、審判以外の判定によって試合が左右されることはない(のが普通)だからです。
結局、解説者が何をいったところで、当の試合には何ら影響を及ぼさないので、リスタートはされるし、ボールの支配権も移るし、それによってチャンスも潰れるわけです。
試合にとっての本来的なオフサイドとは、審判が下したオフサイドの判定に他なりません。

でも、やっぱりテレビで見ている人なんかは、「今のはオフサイドじゃない」、って思うわけです。
解説者がオフサイドかどうかを判定する意味は、実はそこにあります。試合を運営するためのオフサイドの判定ではなく、テレビで見ている人に対する判定なのです。
つまり、そこではサッカーの試合の他に、サッカーの試合を報道する、解説者と視聴者の間の、また別のゲームが存在しているわけです。

じゃあ、解説者が「本来のオフサイド」と発言することの意味は、サッカーの試合には全く関係のない、意味のないことなのでしょうか?
そんなことはありません。サッカーの試合やルールを変えかねない大きな影響を生み出します。
大きな視点からすると、解説者の発言もまたサッカーというゲームに含まれます。それが、例えばVTR判定導入の議論なのです。

ようやく、次の議論に進めそうでしたが、それは次回の話になってしまいました。
さわりだけ、説明しましょう。
ポイントは、前回にあった、審判の判定に従うという、審判の権威です。
ビデオという録画技術は、それへの信頼が高まることで、かえって審判への不信を増長させます。
そこで、審判の権威が失われつつあり、そして、オフサイドとは、試合中に審判がその場で判定するものではなく、ビデオ再生などによって示される「解説者のオフサイド」に取って代わられようとしているのです。
これは、ハート法理学では、一次ルールと二次ルールの結合の変化、及び二次ルール自体の変化と捉えられることでしょう。
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